×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

The End Of My Journey
〜中国株、FX、そして次の目的地を探す旅〜



Since 2006.12.22
親父の生まれ故郷へ帰る旅〜大連のアカシアはまだ心の中で咲いていた〜



  今回の旅のきっかけとなる1枚の写真。時は昭和16年までさかのぼります。

  「死ぬまでに一度生まれ故郷を見てみたい・・・」

  そんな親父の一言から始まった旅をご紹介します。

  私が旅で感じた事を、世界中の人々に伝えたい・・・

  そんな思いでこのページをつくりました。
 
  (ちょっと大げさか?(笑))

出発1週間前


実家でふと親父が一言漏らした時のこと。

「死ぬまでに生まれ故郷を見てみたいな・・・」

その時親父が手にした写真が上の写真。それは親父の両親の結婚式の写真。

以前から親父は旧満州生まれで、父つまり私にとっての祖父は住職、
そしてこの写真は終戦後の引き上げ時に母が傘に隠して持ち帰った・・・

ただそれだけはよく聞いていました。

今年で親父は64歳。そんな言葉を聞き、もう今しかないと思い親父を生まれ故郷へ連れて行く決心をしました。

「よし、1週間後に行こう!」

そこからまず情報集めを始めました。


キーワードは、

@祖父は昭和14年に愛知の東本願寺系の光養寺(現存せず)から旧満州の沙河口の布教所に
  昭和14年に住職として就任した
  そして祖父は昭和20年に病死し、納骨場所は京都の東本願寺の東大谷の御廟か
  御影堂の須弥壇のどちらかわからない

A父は旧満州の旧日赤病院にて生まれた

B写真の現像は旧聖徳街キノシタ写真館で昭和16年10月26日に行われた(写真裏のハンコより判明)


明確な情報はただ3つのみしかありません。

祖母はもう痴呆症で過去の記憶は無く、これ以上の情報は得られる事ができません。

ですがこれら4つのキーワードを基に調べてみると、親父の生まれ故郷がおおよそ判ってきました。

場所は中国の大連です。

そして1週間後の旅立ちに向けて更なる調査を続ける毎日でありました・・・



2006年11月3日
大連市政府(旧関東州庁)
日本の租借時代に関東州庁があったところです。
周辺には公安局、裁判所、大学病院等、
重要な公的機関が集結しています。
目の前の人民広場では何人かのおじさんが凧揚げをしていました。
大連医科大学付属第一病院(旧日赤病院)
人民広場のすぐ西にあります。
父が生まれた場所がここです。
ですが当時の面影は全く無く、綺麗に改装された外観でした。
正門の前に立つ父の表情を見ていると、
本当に来てよかったと思いました。



建物の裏側に入ってみると、昔の建築物が解体されています。
父の生まれた旧日赤病院の真の姿はこちらかもしれません。
市内ではこのように古い建物があちこちで解体され、
新しい街に変わりつつあります。
今はこの建物を利用して食事作りが行われていました。
現在この病院は、現在東京医科大学霞ヶ浦病院、
東京女子医科大学附属第二病院等と提携を結ぶ、
中国トップクラスの医療体制を持つ病院となっているようです。
民政街(旧聖徳街付近)
さて、病院から西へ徒歩10分、沙河口区へ入りました。
親父が持っている写真を約65年前に現像してくださった
写真屋さんがあった街です。
東北路、黄河路、万(やまかんむりに夕)街に囲まれた
中山公園の南側地域は、
旧聖徳街と言われ、当時の日本の一般庶民の方が
多く住まれていた地域です。
ですが当時の面影は全く無く、
現在はマンションや公営住宅らしき建物が立ち並び、
住宅街へと変貌を遂げていました。
写真は当時の街の中心を走る、現在の民政街の様子です。
公営住宅と思われる建物がある地域では、
道路際でいろんな食物が販売されていました。
野菜を運ぶ車は3輪車がまだまだあちこちで現役です。
また、大連はフジリンゴの産地として有名だそうで、
市内様々な所で販売風景を見ることが出来ます。
「ここでこの写真を現像したんか・・・」
写真を手にする親父の涙を見て、
今回の旅の目的は達成できたと思いました。
更に西へ進みました。
この辺りは旧沙河口地区と言われ、
ここも多くの日本人が住んでいた地域です。
写真は旧沙河口白金町付近ですが、
ご覧のように開発で古い建物が跡形も無くなっていました。
辺りには解体された古いレンガが積まれており、
当時の旧日本建築が数多く立ち並んでいたのかもしれません。
カルフールです。
ここは旧沙河口黄金町付近です。
ショッピングセンターが立ち並び、昔の面影は全くありません。
旧大正通
カルフールを越え、北に向かって右折すると、
旧沙河口地区のメイン道路と言われた旧大正通です。
現在も多くのお店が立ち並び、路面電車が走っています。
この辺りも昔の面影は全く無く、
ここでホテルに引き上げることにしました。
ここまでホテルから約4q。
約3時間の徒歩の旅は、
親父にとっては忘れられない旅になったようです。
2006年11月4日
2日目の朝です。町全体がもやに包まれています。
今日は現地ツアーで旅順を訪れます。
そして夕方には市内観光をする予定です。
旅順は1996年に外国人に解放されました。
ですが訪問可能なのは現在3箇所のみ。
外国人立ち入り禁止箇所や
撮影禁止箇所も数多い軍港の町ですので、
訪問される際は必ず現地ツアーを利用されることを
オススメします。
今回はドライバーさん、そしてガイドツアーの塗さん、
そして我々2人の計4人でのワンボックスでの旅でした。
ちなみにこの塗さん、元ライブドア大連支局にお勤めだったとか
ですがこの2人との出会いが私達の運命を
変えてくれることになりました・・・
東鶏冠山北堡塁
大連市内から車で約1時間、
日露戦争の激戦地となった場所です。
帝政ロシア軍が旅順東側の陸上防衛線に築いた堤防跡で、
壁には旧日本軍による銃撃痕が残っています。
ここではあえて詳しくは説明しませんが、
過去の悲しい歴史は絶対繰り返してはならないと感じます。
ちなみに下の写真にある山頂の砲台跡は、
現在外国人は立ち入りできません。
旅順博物館
まだ正式に外国人には解放されていないようですが、
今回見学することができました。ツアー会社の力か?(笑)
この博物館の目玉は、
トルファンで発掘されたミイラの展示です。
研究員の方が丁寧に中を案内してくださいましたが、
最後に締め切った部屋に案内され、
掛け軸や展示品の激しい売込みが始まりました(笑)
塗さん曰く、旅順は外国人に解放されてまだ間もなく、
観光収入も少ない為、財政が厳しい地域であり、
博物館の方も観光収入の確保に必死とのこと。
203高地
日露戦争の激戦地跡です。
旅順港を見渡せるこの場所は戦略的な重要地域とのことで、
激しい戦いが行われたようです。
戦争で使用した銃や大砲から作られた慰霊碑が建っています。
水師営会見所
帝政ロシアが旅順を日本へ明け渡す際、
旧日本軍司令官の乃木希典と、
ロシア軍司令官のステッセルが
会見を行った場所。
建物の中では現地の方が説明してくださいますが、
その説明の言葉や中の展示写真を見ていると、
悲しい歴史があったことを実感されることでしょう。
ヘラヘラ楽しそうに説明を聞いていた
日本人ツアー一行と遭遇しましたが、
同じ国民として悲しくなるばかりでした。
旅順市内
軍港付近は撮影禁止でしたので、
撮影可能な地域でのみ写真を撮りました。
中心部を見ても大連市との開発状況の差は大きくあります。

旅順から大連市へ戻る車中、親父が日本から持参した写真を見ていると、

それに気づいたドライバーさんが、ちょっと見せてと写真を手に取りました。

今まで無口だったドライバーさんが急にしゃべり出しました。

「もうこの場所には行けましたか?」

「いえ、この写真を現像した場所はわかりましたが撮影された場所はわかりませんでした。」

そこで日本で得た情報をドライバーさんに伝えると、

「よし、思い当たる場所がある、そこに行きましょう!」

と言って速度はあっという間に時速140qに到達したのだった・・・(笑)

東北路小学(旧聖徳小学校)
中山公園のすぐ東にある小学校です。
建物は当時の日本建築だそうで、
旧日本建築のポイントは縦長の窓。
校庭から見えるマンション街は、
昨日歩いた旧聖徳街に当たります。
中山公園(旧聖徳公園)
旧聖徳街の北側にある公園で、
ここは旧満州時代からある公園です。
公園内では多くのお年寄りがトランプをされていました。
旧太子堂
公園内にあります。
現在は退職したお役人の方々の憩いの場として
使用されているとのこと。
何度も改修されているようですが、
庇の部分の使用部材を見ると、
相当古い建築物であることがわかります。
ドライバーさん曰く旧沙河口地区で、
当時の神社の佇まいを残して
現存しているのはここだけだとの事で、
ドライバーさんが特別に建物内へ入る許可交渉をしてくださり、
事情を理解してくださった管理者の方が
建物の中を案内してくださいました。
建物内部にあった会議室です。
ここで退職されたお役人の方々の談笑会が行われているとの事。
かなりの改修を重ねているとの事ですが、
内部ドア等の建具は相当古くからのものであることがわかります。


「そう言えばおふくろがよう言ってたわ・・・中国人はとても親切やったと・・・悪い奴は日本人ばっかりやったと・・・」

親父がつぶやきました。

痴呆症になる前に祖母がよく父に言ってた言葉だそうです。

「ホンマに親切やな・・・おふくろの言う通りや。」

そして車は更なる目的地へ向かうのだった・・・


南山街付近の旧日本建築
改修を重ねて、今でも人々の住まいとなっています。
門壁に表札を取り付けるのが旧満州でも
昔からの習慣だったようで、
旧日本建築には全て表札を取り付けた跡が残っています。
でも塗さん曰くあと3年経てばこの辺りも
全部解体されるだろうとこと。
焼肉屋さん。
表札の取り付け跡が鮮明に残っています。
大連京劇団(旧東本願寺)
1947年に結成された伝統ある京劇団。
建物は旧東本願寺を改修して利用されています。
当日は改修中とのことで全景は見ることが出来ませんでしたが、
建物はまさに日本建築です。
写真を手に親父はつぶやいていました。
「この写真はここで撮影したんやろか・・・」
そんな話を4人でしていると、
ふと門の横の扉から3人の男性が出てきました。
我々を通り過ぎた後、
写真を見て一人の男性が声を掛けてきました。
「・・・他にもっと写真は無いですか?」
その後、15分ぐらいの議論が続く。
「この写真の背景の窓に写ってる木からすると、
これはお寺の庭の門の前で撮影されたのではないか・・・」
昔ここにも大きな庭とお坊さんの宿舎が
2件横並びにあったそうですが、
当然のことながら今では全く残っていません。
ちなみに写真内の女性がガイドの塗さんです。
「せっかくだから中を見せてあげようって男性が言ってます。」
何と一般開放していない2階部分を見せてくれるとの事。
1階で行われていた京劇は既に始まっており、
舞台横をすり抜けて2階へ案内して頂きました。
塗さんもここへ入るのは初めてとの事。
2階については当時から全く手をつけていないそうで、
現在は全く利用されていないとの事でした。
中国国内の寺院や宗教的文化財は、
文化大革命によって殆ど破壊されたそうですが、
ここには経が大量に保管されていたそうで、
破壊を免れたようです。
仏像を覆ってあるのは、
屋根も改修中であり像の上での作業が失礼に当たるとのことで、
現在このような状態だそうです。
ですが、この仏像は今後も一般公開する予定も無く、
工事が終わると誰も訪れる事もなく、
静かにこの建物の中で安置されるそうです。
ここに旧満州に残る本当に最後の日本人ゆかりのものを
見たような気がします。
そしてそれを中国の方々は大切に今も守り続けています。
そんな国を越えた友情がどこにありますか・・・
大連オフ会(2006年11月4日)
参加者:塗さん、ドライバーさん、親父、たつぞう
いつも中国へ訪問すると同じ感想を持つのですが、
今回も中国の方皆さんの親切さを非常に感じることができました。
本当にありがとう!父も満足してくれていると思います。
そうです、大連には
常に日本人の心の中にアカシアの花が咲いているのです!
そしてその心と心の輪は全世界へ
広げていきたいと改めて感じたのでありました。
2006年11月5日(オマケ)
帰国日です。
ホテルから空港までのタクシーにやられました(笑)
ふと気づくとメーターをおろしていない(笑)
中国訪問5回目で、初の白タクです。
空港に到着すると、親父にすぐ荷物を出して外に出るように告げ、
戦いの始まりです(笑)
「50元!」
お金メイヨウ!30元!
「50元!」
お金メイヨウ!30元!明白了マ!!
「ハハハー、明白了。」
せっかくのいい思い出を何してくれるねん!オッサン!(笑)
 Copyright(C)2006 tatuzo All Rights Reserved.